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王 章(おう しょう、? - 紀元前24年)

王 章(おう しょう、? - 紀元前24年)は、前漢の人。字は仲卿。泰山郡鉅平の人。

若くして長安で学問を学んだ。妻と二人で住んでいたが、病気になってもまともな掛けものもなく粗末な衣の上に臥せっていた。王章は妻に対し泣いて今生の別れを述べようとしたが妻は「都の大臣たちにだって貴方を超える人などおりません。今、病気で苦しんでいるからといって奮起せずに泣いているとは、なんと卑しいことですか」と叱咤した。

その後官に就き、諫大夫となり、直言をすることで朝廷で名声を博した。元帝の初めに左曹中郎将に抜擢された。御史中丞陳咸と仲が良く、権力を握る中書令石顕を弾劾したが、逆に石顕に陥れられ、陳咸は髠刑にされ、王章は罷免された。

成帝が即位すると諫大夫に就けられ、司隷校尉となって大臣や外戚に恐れられた。河平4年(紀元前25年)、王尊以後は人を得なかった京兆尹に選ばれた。

当時、外戚の大将軍王鳳が権力を握っていたが、王章は王鳳に推挙されたとはいえ王鳳が権力を独占することを良く思っていなかった。王章の妻は「人は足るを知るべきです。粗末な衣に臥せっていた時のことを考えないのですか」と言って王鳳に逆らうことを止めたが、王章は聞かず、成帝に王鳳が成帝の弟の定陶王(劉康)を国に行かせたこと、王鳳が丞相王商と争い王商を死に追い込んだこと、王鳳が自分の妾の妹で結婚していたことがある女性、張美人を後宮に入れされたことなどを非難し、罷免して交替させるべきと主張した。

王商や定陶王の件で内心穏やかではなかった成帝はその言を納れ、「京兆尹の進言がなかったら、朕は社稷のための計を聞かずに終わるところであった」と王章に言い、誰に交替するべきか尋ねた。王章は成帝の弟中山王の外戚に当たる馮野王を勧め、成帝も馮野王にしようとした。このやり取りは人払いして行われたが、侍中であった王鳳の親戚王音が耳をそばだてて聞いており、このことを王鳳に報告した。王鳳は自ら悲しみに満ちた文面の辞職願を出し、皇太后王氏(王政君)もそれを聞いて涙を流し、食が進まなかった。成帝は王鳳を廃するに忍びず、王鳳を慰留した。

王鳳は王章を「王の外戚を推薦するのは諸侯に阿ったものである。また張美人の件を批判する際に「羌でも女性が産んだ最初の子は(自分の子ではない疑いがあるから)殺すのに、天子の後宮に最近まで別の者に嫁いでいた者がいるとは」と言うべきではないことを発言している」と尚書に弾劾させ、王章は獄に下された。廷尉は張美人についての発言を「天子を夷狄になぞらえ、また天子の子孫繁栄を断とうとするものである」と大逆罪に当て、王章は獄中で死亡した。

京兆尹では彼が冤罪で死んだと思い、彼と優れた手腕を見せた王尊、王駿とを並べて「三王」と呼んだ。

王章の妻子も獄に下され、王章の死後は合浦に流された。その後、王鳳の弟の王商が権力を握ると、王章の家族を故郷に戻した。王章の家族はみな揃っており、真珠を採取して巨万の富を得ていた。 当時泰山太守だった蕭育は王章の田畑や宅地だったところを王章の家族に返還させた。

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2009年04月15日 07:12に投稿されたエントリーのページです。

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