医学・アロマテラピー関連最新の健康全国情報ガイド
ポラーノショッピングタウンガイド
ガルバータメンテ暮らしの教育情報
特産物・観光関連旅行ガイドナビ
マンチュリアンキレイ・美容紹介
エージェント・独立開業関連最強のビジネス紹介
防犯・ブログ関連よくばり生活情報
メンタルヘルス・精神医学関連最新の医学紹介
パピヨン買物達人ガイド
サクラスミレ学習らんど紹介
大祚栄が震国を建国した当初は唐と対立していた。そのため当初は突厥や新羅との通好による唐の牽制を外交方針の基本にしていたが、唐の中宗が即位すると、張行芨を派遣・招慰し両国の関係改善の転機をもたらした。大祚栄もこの招慰を受け入れ、王子を唐に入侍させ、唐に従属する政治的地位を確認した。713年には唐は大祚栄を「左驍衛員外大将軍渤海郡王」を封じ、冊封体制に組み込まれるようになり、その後は「渤海国王」と「渤海郡王」と冊封の官称に変化はあったが、原則として渤海の滅亡までこの関係は維持された。
招慰を受けた渤海は質子の制度に基づき、子弟を唐に遣している。大祚栄の嫡子であった大門芸が派遣されたのが初見であるが、渤海からの質子は単なる人質としてではなく、皇帝の謁見、賜宴を受け、時には皇太子の加冠や謁陵、時節の朝儀などに列席するなどの待遇を受け、また唐にて客死した場合は位階の追贈や物品の下賜を受けるなどの特別待遇を受けている。これは渤海との関係が良好であったための待遇と考えられる。
この他渤海は唐の藩属として定期的に方物を献上し朝貢を行っていた。朝貢の際には「土貢」を献上すると同時に国内状況を奏上していた。この他、元旦や各節句に「賀正使」と献礼の使節を派遣した。これらの使節はほぼ毎年の派遣が記録に残されており、また1年に2~3度も使節派遣を行っていることが知られており、渤海は独立した政権を確立すると同時に、冊封体制下での唐との外交関係を滅亡まで継続していた。